長久保宿のみどころ

中山道長久保宿は、当初、長久保の「下川原」と呼ばれていたところに、松尾、円通寺、原、中島、岩崎など近隣の小さな集落から人を集めて、新たに造成されたと伝えられており、常備した馬や人手が足りないときは、近郷から協力する制度も順次整えられています。

慶長11年(1606年)には、3年間を諸役免除とし、戦乱や凶作で逃散していた人々をこの地域に呼び戻しています。 寛永7年(1630年)には、すでに112戸の人家があったようですが、翌寛永8年(1631年)の洪水で大きな被害を受け、現在の場所に移ったと記録されています。

当初の宿場は、現在の宿場地区より西方、依田川沿いで、いまでは水田になっている地域であろうと推測されていますが、まだ確認されておりません。

長久保宿は江戸方の竪町と京方の横町からなり、これがL字型に接続して宿場を構成しています。横町は南北に延びる平坦な道筋ですが、竪町は東西に延びる道筋で、江戸方向に直線的な登り坂となっています。 竪町筋には下町と中町の呼称が残り、中町に本陣や問屋を勤めた家が集まっています。京方の上町は竪町筋を依田川寄りに延長したところにあり、寛永8年に移設された当時は東西方向に直線的な宿場で、やがて横町筋が発展してL字型の宿場になったと推定されています。

「新編長門町誌」によれば、延宝3年(1675年)には97戸、馬45匹、宿場の長さは6町28間でしたが、正徳6年(1716年)には191戸、921人、馬は78匹と増加し、宿場の町並みも享保9年(1724年)には7町3間、延享元年(1744年)には7町40間と拡張されています。そして、ほぼこの状態が幕末まで続いています。 延宝3年(1675年)の97戸が、正徳6年(1716年)には191戸と倍増しています。この時期に横町地区の発展などの飛躍が予想され、宿場の姿も変わったことと思われますが、詳らかではありません。 天保14年(1843年) の「中山道宿村大概帳」によれば、長久保宿は竪町と横町からなり、竪町は東西に3町45間(約460m) 、横町は3町7間(約330m) 、宿内の道路幅は3間(約5.4m) 、人口765人、家数は192軒(本陣l 、脇本陣1 、問屋l 、旅龍41、酒食屋・商家27、百姓屋121)と記されております。