長久保宿の紹介

長久保宿本陣石合家
長久保宿本陣石合家

長久保宿(長窪宿)は、慶長七年(1602)の中山道制定にともない、小県郡を領した真田氏の配下で、本陣・問屋を勤めた石合氏、問屋を勤めた小林氏が中核となり、当初は現在の位置より西下の依田川沿いに宿場が設けられました。

しかしながら、寛永八年(1631)の大洪水により宿場が流失したため、段丘上の現在地に移り、本陣・問屋を中心に東西方向に「竪町」が形成され、後に宿場が賑わうにつれ、南北方向に「横町」が形成されていき、特異なL字型の町並みとなりました。
長久保宿には寛政(1789)以降、40軒前後の旅籠屋があり、中山道信濃二十六宿のなかでは、上位に位置する数を誇りました。

長久保宿鳥瞰図
長久保宿鳥瞰図(現代)

 その要因としては、宿場の前後に笠取峠・和田峠の難所を控えていたことや、大門道や北国街道へ通じる交通の要衝に位置していたことが上げられます。

 明治時代になっても宿場の賑わいは続きますが、しだいに幹線道路と鉄道が整備されるにつれ、農村へと姿を変えていきました。