和田宿の紹介

和田宿本陣
国史跡和田宿本陣

中山道の最高地点にして、最大の難所といわれた和田峠(標高約1,600m)を控えた和田宿は、隣りの下諏訪宿まで五里十八町(約22㎞)、峠との標高差は800mほどもあったため、逗留する諸大名らの行列や旅人も多く、長久保宿同様に、信濃二十六宿のなかでは規模が大きい宿場町でした。

江戸後期の文政年間(1804〜1828)には、本陣1軒、脇本陣2軒、問屋2軒、木問屋1軒、旅籠屋・茶屋72軒で、宿内の家数は180軒余りであったと記録されています。

幕末の文久元年(1861)3月、本陣ほか宿場の大半が火災で焼失してしまいますが、この年の11月には皇女和宮の御下向が控えていたことから、幕府より二千両ほど拝借し、町並みを復興させ、この大通行を無事
迎えました。

和田宿周辺図
和田宿本陣鳥瞰図(幕末期)

昭和五十三年(1978)から、「歴史の道中山道保存整備事業」として、中山道や本陣ほか建造物の保存整備を行い、これらは国史跡に指定されています。