ながわ歴史紀行

中山道編の概要

wadajyuku-huukei今月から、第二部「中山道編」の連載が始まります。本編では明治時代初めから中頃にかけて撮影された長久保宿・和田宿の風景写真を中心に、同時期に中山道を旅したイギリス外交官のアーネスト・サトウとイギリス人商人のアーサー・H・クロウの日記の記述と重ね合わせて、様変わりした中山道の様子を紹介していきたいと思います。

  1. 笠取峠の茶屋
  2. 笠取峠の由来
    小県と佐久を分ける笠取峠は、かつて苅取峠といわれ二軒の立場茶屋があった。
  3. 長久保宿(竪町)
    大門道、北国街道への分岐点にあたり特異なL字型町並みを残す長久保宿を紹介。
  4. 中山橋
  5. 依田川
    広重が描く落合橋に隣接した依田川に掛かる木橋。
  6. 和田宿(橋場付近)
  7. 和田宿の町並み
    中山道最大の難所和田峠を控えた宿場町。本陣をはじめ往時の面影を色濃く残す。
  8. 唐沢一里塚
    今となっては道筋でも珍しい一対で現存する一里塚。
  9. 和田峠の東餅屋
    かつて五軒の茶屋があり、和田峠越えの人馬の休息所となった。
  10. 和田峠(古峠)
    標高1600mを数える中山道最高地点。map

笠取峠の茶屋

歴史紀行笠取峠 小県郡と佐久郡との境に位置し、長久保宿と芦田宿の間にある笠取峠(標高887メートル)には二軒の立場茶屋が置かれ、中山道を往来する旅人や人夫の休息所となっていました。

ここにいつ頃茶屋が出来たのかは詳らかではないのです、長久保宿の旧家所蔵の文書に、寛政三年(1791)には二軒の茶屋があったことが記載されています。

当時の峠は、現在の国道142号線の通過する箇所より、やや南側に位置し、道も今より7、8メートルほど高所を通過していましたが、明治初期の路線変更と、その後の切り通し開削のため、面影を失い、茶屋も明治三十四年(1901)に立科町側に移転しています。

現在は山の斜面に、わずかな平坦部が残され、立場茶屋の痕跡を微かに留めています。

写真は長久保宿側から撮影したもので、立派な石垣の上に立つ茶屋の向こうには浅間山が見えています。

第三回「笠取峠の由来」

笠取峠の立場図(版画)
笠取峠の立場図(版画)

前回、笠取峠には二軒の立場茶屋があったことをお伝えしましたが、その内の一軒を「小松屋」といい、往時の様子が版画に描かれています。

この版画は、小松屋が宣伝用に作ったもので、右側に「浅間山一見所 中山道信協あし田宿より長久保宿の間笠取峠御立場 小松屋壽恵蔵」とあり、中央には立派な石垣の上に立つ大きな茶屋とともに、旅人や駕籠屋、武士、飛脚が描かれ、奥の左側には煙を上げる浅間山があり、右には「金明水」、「横井戸銀明水」(註)が描かれています。

そして、下側に「かさとり峠名ぶつ 三国一のちからもち」、左側に「浅間山一見所紅葉 松風の名所」と宣伝文句が書かれています。版木は長久保宿竹内家(釜鳴屋)の所蔵で、町の文化財に指定されています。

さて、現在も峠の名称は「笠取峠」で、版画にも笠取峠とあるのですが、江戸時代中頃の享保九年(1724)に松本藩が編纂した『信府統記』には、「長久保より佐久郡芦田へ一里半 石原坂あり、武石路往還の左の方へ行くなり、かりとり峠、此峰小県と佐久の郡境なり」とあり、笠取峠は「かりとり峠」と記されています。

また、宝暦三年(1753)に佐久の郷土史家・瀬下敬忠が記した地誌『千曲之真砂』には「芦田よりながくぼ江一里半 一里行きて狩取坂という、また狩鳥峠とも云う也、一説に笠取峠という、風強き所なる故の名なりといえり」とあり、ここでは「狩取坂」、「狩鳥峠」を正式な名称とし、一説として笠取峠としています。

さらに、天保三年(1832)に峠の二軒の茶屋から長久保宿宛に提出された文書にも「苅取峠」と記されているのですが、嘉永五年(1852)の「長窪宿明細帳」では「笠取峠」に変わっています。

「かりとり峠(狩取・狩鳥・苅取)」から「笠取峠」に名称が変更したのは天保以降のようですが、この小松屋の宣伝用版画の影響で「笠取峠」の名称が一般化していったように思えてなりません。

また、「笠取」の由来として、先の『千曲之真砂』にもあるように「風の強い所で、笠を飛ばされてしまう。」いう説のほかに、「ここから見える浅間山の見事な眺望に、旅人が皆笠を取って仰ぎ見る。」といった説が伝えられています。

(註)「金明水」、「横井戸銀明水」は地元の有志の方々によって再発見され、現地に標柱が建てられて
います。※参考文献「立科町誌」

第四回「長久保宿」

歴史紀行長久保中山道の各宿場は、中世の城下町や拠点集落に設けられた場合と、周辺域から人を移して新たに設けられた場合があります。

長久保宿(長窪宿)は、後者にあたり、慶長七年(1602)の中山道制定にともない、小県郡を領した真田氏の配下で、本陣・問屋を勤めた石合氏、問屋を勤めた小林氏が中核となり、当初は現在の位置より西下の依田川沿いに宿場が設けられました。しかしながら、寛永八年(1631)の大洪水により宿場が流失したため、段丘上の現在地に移り、本陣・問屋を中心に東西方向に「竪町」が形成され、後に宿場が賑わうにつれ、南北方向に「横町」が形成されていき、特異なL字型の町並みとなりました。

長久保宿には寛政(1789)以降、四十軒前後の旅籠屋があり、中山道信濃二十六宿の中では、上位に位置する数を誇りました。その要因としては、宿場の前後に笠取峠・和田峠の難所を控えていたことや、大門道や北国街道へ通じる交通の要衝に位置していたことが上げられます。

明治時代になっても宿場の賑わいは続きますが、しだいに幹線道路と鉄道が整備されるにつれ、農村へと姿を変えていきました。

写真は明治前期に竪町の上位から下位方向を撮影したものです。向かって左側の男性二人が佇む後ろの建物が、現在の長久保宿歴史資料館一福処濱屋で、中央右側の大きい松は本陣にあった「御用(五葉)松」です。

◆参考文献
「新編長門町誌」
◆写真提供
長崎大学附属図書館「中山道長久保の宿場(目録番号1598)」

第五回「落合橋」

歴史紀行落合橋下現在の国道142号線は、「大和橋」を通過していますが、往時の中山道は、大門川と依田川に架か
かる二つの「落合橋」を通過していました。

江戸時代中頃、延享元年(1744年)の「長窪新町差出明細帳」には、大門川に長さ八間半(約15・3メートル)、幅一間半(約2・7メートル)の土橋が、依田川には長さ八間(約14・4メートル)、幅一間半の板橋が架けられていたことが記載されています。

また、幕府の道中奉行が作成し、文化三年(1806)に完成した中山道公式ガイドマップともいえる「中山道分間延絵図」にも、大門川に土橋が、依田川に板橋が描かれています。

土橋は、丸太を並べて作りますが、このままだと凸凹していて歩きづらいため、土砂をかけ踏み固めて平に仕上げます。当時の橋はこのような土橋が多かったようです。

一方、板橋は、板張りであるため、手間と経費がかかり、設置箇所は限られていたようです。

この二つの橋は、長久保宿地内とされ、その普請役は、長窪古町をはじめ、依田窪地域や、佐久郡の望月以西の村々に命じられていました。

写真は、依田川に架かる落合橋で、丁寧な石積で護岸し、きれいな板橋が架けられています。

◆参考文献
「新編長門町誌」「歴史の道調査報告書-中山道-」
◆写真提供
長崎大学附属図書館「中山道和田付近の落合橋(目録番号1597)」

第六回「依田川」

歴史紀行落合橋上今回は、明治初期に当地を訪れた二人のイギリス人の旅行記から、タイトルに因み、「川」と「水」にまつわる記述をご紹介します。

明治十一年(1878)に中山道を通ったイギリス人通訳・外交官のアーネスト・サトウは、次のような記述を残しています。

8月11日「(前略)長久保に入る少し前に、ほんの一瞬ではあるが谷を見る眺めを得られてとても美しい。徐々に上昇していく新緑の前景、また両側の風景を取り込む山脚、その背後をぎざぎざの濃い青い山脈が占めて一枚の絵となる。山脈は風景の広がりの中を横に走り、和田から流れている細流へ向かう障害であり、越えることのできない壁のように見えるが、にもかかわらずこの絵の右の下のずっと下の方に、その出口があるのではと想像がつく。(後略)」

依田川に沿って開けた依田窪の谷を眺めた感想ですが、「青い山脈」とは湯ノ丸・菅平方面を指しているのでしょうか。

もう一人、明治十四年(1881)に中山道を通ったイギリス商人のアーサー・H・クロウの記述をご紹介します。

6月24日「(前略)午後五時に和田を発って、長久保まで平坦な、人家の蜜な谷間の5マイルの道を一時間半で歩いた。村々に小さな水車が非常にたくさんあるのが目についた。数多の小川がどんな種類の家内労働にも利用されている。大工仕事、絹の機織はたおり、米搗つきなど、色々なことに巧みな発想で応用されている。(中略)小さな木造の小屋があるのが目に入る。その中に、田畑から細い水流が注ぎ込み、中から一定の間隔で「ドスン、キィー」という音が響いてくる。(中略)この巧妙な器械の持ち主は、ただ朝のうちにその中に米を入れて置きさえすれば、夕方にはもうすっかり脱穀してもらえているのだ。(後略)」

クロウは、約3ケ月間の日本滞在中、様々な所を旅して周り、客観的で正確な記録を留めていて、当地の水車とその利用の巧みさに驚嘆している様子が覗えます。因みに明治五年(1872)頃、和田には二十七基の水車がありました。

写真は、落合橋から依田川の上流方向を撮影したもので、茅葺の小屋の脇を中山道が通っています。

第七回「和田宿」

歴史紀行和田中山道の最高地点にして、最大の難所といわれた和田峠(標高約1600m)を控えた和田宿は、隣りの下諏訪宿まで五里八町(約22キロ)、峠との標高差は800mほどもあったため、逗留する諸大名らの行列や旅人も多く、長久保宿同様に、信濃26宿の中では規模が大きい宿場町でした。

江戸後期の文政年間(1804〜28)には、本陣1軒、脇本陣2軒、問屋2軒、木問屋1軒、旅籠屋・茶屋72軒で、宿内の家数は180軒余りであったと記録されています。

写真は、橋場付近の町並みを撮影したもので、整然とした中山道の真ん中に子どもらが佇み、撮影者の方を不思議そうに眺めています。奥の方には、判りづらいのですが、かすかに追川橋がみえ、そして、背後の山なみが、和田城跡がある古峯山です。

建物母屋の造りをみると、山間部の旅籠建築に多くみられる、一階部より二階部を突出させた「出桁造り」で、板屋根の上にはかなりの数の置石がみられます。置石が多いのは釘を使用せずに、板屋根を葺くためで、桟木を渡して石で押えているからです。因みに次回ご紹介する和田宿本陣の栗板屋根には1633個の置石が使われています。

そして、板材は恐らく栗なのでしょう。歴史的建造物の修復を専門に手掛ける大工棟梁の話しによると、中山道筋の宿場の建造物で、屋根板に栗材を用いているのは、和田宿と長久保宿が断トツに多いとのことです。

栗材は堅くて、反りや捻じれが少なく、長持ちしますが、その反面、加工しにくく、割って板にするには、かなりの労力と技術が必要でした。

当時、板づくりは、中山道の通行量が減り、農閑期ともなる冬場に、個々の手仕事として行われていたようです。

この写真をしばらく眺めていたら、長久保宿の伝承芸能である「長久保甚句」の代表的な唄として知られる「長い長久保 板屋根づくり 瓦(変ら)ないから来ておくれ。」の文句が自然と浮かんできました。

第八回「和田宿の町並み」

和田宿の町並み文久元年(1861年)3月、和田宿はその大半を焼失するほどの火災にあいますが、この年の11月には皇女和宮一行の宿泊が決定されていたことから、幕府の援助と住民の努力により、見事に町並みを復興し、未曾有の大行列を無事に迎えます。

イラスト画は、和宮一行が和田宿に到着した様子を描いたものです。

10月20日、京を出発した和宮一行は中山道を下向し、難所である和田峠を一日がかりで越え、和田宿に到着したのが11月6日(新暦12月7日)の夕刻でした。

前後4日間にわたる行列の総人数は京方が和宮、御生母観行院、公家らの一万人、江戸方が京都所司代ほか1万5千人、通し雇い人足が4千人で、これに下諏訪宿から和田宿までの沿道警固に諏訪の高島藩があたり、本山宿から和田宿までの随行警護に上田、高遠両藩があたりました。

一行の宿泊は宿内だけでは到底間に合わず、周辺百姓家にも及び、助郷人足は神社の軒下、床下にも寝なければならなかったといわれています。

沿道を埋め尽くす煌びやかな行列と対照的な晩秋の信濃の山並みが、和宮の心情を表現しているかのようにも思えます。

※引用文献 『鳥瞰中山道和田宿』歴史群像シリーズ特別編集「篤姫と大奥」(学研)より

第九回「唐沢の一里塚」

中山道唐沢一里塚一里塚は、五街道に一里(約4キロ)ごとに目印として築かれた土盛りの塚で、慶長九年(1604年)から、徳川家康の命を受けた家臣の大久保長安が指揮をとり、10年ほどで設置しました。

塚は、通常、対で設けられ、旅人が木陰で一休み出来るように榎や欅、松などの樹木が植えられました。特に榎が多かったようですが、これには、次のような逸話が残されています。

大久保長安が一里塚に植える樹木について、家康に問い合わせたところ、「ええ木にせい。(良い木を植えよ。)」と命じられましたが、長安はこれを「榎にせい。」といわれたものと聞き違えて、これにより一里塚には榎が植えられることになったということです。

さて、当町を通過した中山道筋には、江戸方から数えると、四泊、上組、鍛治足、唐沢、東餅屋の5箇所に一里塚が設けられていました。

この内、四泊、上組、鍛治足の一里塚は、明治維新後、道路拡張や民間への払い下げにより撤去され、現在は跡地に標柱や説明板が設置されています。

また、東餅屋の一里塚は、山中に埋もれていたものを、歴史の道保存整備事業で1基が復元されています。

そして、唐沢の一里塚は、この辺りの中山道の道筋が、江戸時代のかなりはやい時期に変更になったためか、そのまま山中に残されていました。

「中山道分間延絵図」を見ると、道筋から外れた山中に二基の一里塚が描かれています。

戦時中の開墾により一部削られた箇所もありましたが、ほぼ往時の原型を留めていて、今となっては五街道の中でも珍しい、対で現存する一里塚です。

写真は、江戸方となる唐沢地区側から撮影したもので、一里塚の間を歴史の道として復元した中山道が通っています。

第十回「東餅屋の茶屋」

歴史紀行東餅屋中山道和田宿と下諏訪宿間は約22キロにもおよぶ長丁場であり、しかも、中山道中最大の難所である和田峠を控えていたため、峠を挟んで和田宿側には「東餅屋」、下諏訪宿側には「西餅屋」という休憩所が設けられていました。

東餅屋には五軒の茶屋があって、旅人の救護も兼ねていたため江戸時代初期の寛永年間(1624〜1643年)より、一軒ごとに一人扶持(一日玄米五合)が幕府から支給されていました。

幕末には諸大名らが休息するための茶屋本陣も置かれ、文久元年(1861年)11月の和宮御下向の通行の際には、ここで昼食が取られています。

さて、地名の由来ともなった茶屋で出された名物「力餅」は、餅を瓶に入れて保存し、その瓶を湯釜に入れておいて客の求めに応じて取り出し、飴をつけて、温かくやわらかい餅を提供していたものです。

写真は、峠下となる和田宿側から撮影されたもので、整然とした立派な茶屋が立ち並び、にぎわっていた様子が伺えます。

現在では、石垣で区画された敷地跡が、わずかに往時の面影を留めています。

※引用文献 「和田村誌」

第十一回「和田峠(古峠)

和田峠古峠小県郡と諏訪郡との境に位置し、分水嶺ともなる和田峠(標高1600m)は、中山道最高地点にして、最大の難所といわれてきました。今回は中山道を通って和田峠を越えた人々の記述から、往時の峠の様子を探ってみたいと思います。

臨済宗の高僧、沢庵和尚は、寛永十一年(1643)に江戸から京へ向い、「和田峠二里半の道なり、かたのごとくなる大山なれども、らくとしたる一坂ほどに、此の国ぶりにはおもふときこへぬ。」と記し、「(和田宿から)和田峠まで二里半(約10Km)で、大きな山であるけれど、好ましい上り坂で、信濃国らしい。」と感想
を述べています。

江戸時代前期の儒学者で筑前(福岡県)黒田家の家臣であった貝原益軒は諸国を巡り、その紀行文に「(前略)和田嶺あり、坂長し。上下おのおの二里半余りあり。東坂やすらかにして、西坂はけはし。はなはだ儉難にはあらず。三月末までみねに雪おほし。路にもなほのこれり。(後略)」と記し、「東坂(和田宿側)は緩やかな上り坂で、西坂(下諏訪宿側)は険しい坂ではあるが、それほど厳しい難所ではない。三月末(今の五月上旬)なのに残雪が多く、道にも残っている。」と述べています。

尾張徳川家の家臣であった横井也有は、延享二年(1745)四月に江戸から尾張(愛知県)へ向かい、「和田峠を徒歩にて越す。ここはすぐれて高き嶺にて、今すこし上の方に鳩の峰といへるは、日本にならぶ方なく高きよし。(中略)下に雪の多く残りてあり。けふはこと雪深き中をわけ行くに、咫尺しせきも行かぬほど也。」と記し、今の五月中旬頃でも残雪が多く、雪道を分け入って歩くも、僅かしか進めない様子が伺えます。

これらの記述から、和田宿側からの峠越えは、難所とまでいわないまでも長くて緩い上り坂で、峠付近では五月に入っても雪が残り、通行にも支障があったことが判ります。

和田峠山中の中山道は、現在、歴史の道として復元整備され、国史跡にも指定されています。

※引用文献 「和田村と文学」

最終回「中山道文化」

22回宿場会議近世初頭に中山道が整備されると、その随一の難所である和田峠を控えた和田宿と、各主要道への分岐点にあたる長久保宿はしだいに発展して、江戸時代中期以降、信濃二十六宿のなかでも大きな宿場町として賑わいをみせます。

そして、その賑わいを支えた定助郷村には、下和田の人々とともに大門村が和田宿にあたり、一方、長久保宿にはかつての母村である長窪古町があたり、幕末の和宮御下向に代表される大行列の通行をも、ともに担ってきました。

そして、和田宿・長久保宿とも、江戸と京坂を繋ぐ回廊的役割を担い、江戸や京坂で起こった出来事は、4、5日後には当地域でも知ることができたといわれています。

信濃の山間部に位置しながら、政治、経済、文化の橋渡しをすることで、当地域には「中山道文化」ともいえる当代一流の文化が発祥していたように思えてなりません。

そして、旧長門町・旧和田村の合併の契機となったキーワードの一つである「共有する歴史と文化」は、中山道と両宿場の存在が大きなウェートを占めています。

今、多くの人々が自らの足で中山道を歩いて両宿場を訪れていますが、それは先人らの息吹が感じられる往時の「中山道文化」が色濃く残っているからではないでしょうか。

そして、これをよりよい形で次世代に伝えていくことが今に生きる我々の責務であると考えます。

中山道編文責
長和町教育委員会文化財係 勝見 譲